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阿波国の礎 河川事業
四百年前の旧堤 蓬庵堤
 蓬庵堤は、蜂須賀家政が天正13年(1585)に豊臣秀吉から阿波国を拝領した翌年、一宮城から徳島城に移った際に鮎喰川右岸に築いた堤防です。家政が出家したときの名を蓬庵といったところからその名があります。
 当時の鮎喰川は、今より東の眉山の麓を流れ、洪水のたびに城下町に氾濫していたため、その河道を現在の河道に固定するために築かれた堤防で、高さ4、5尺程度のものでしたが、現在はそのほとんどが道路となっています。蓬庵堤は、その後も歴代藩主や徳島藩随一の土木技術者といわれた伊澤亀三郎らによって、たびたび修築・延長工事が行われました。幕末に起きた「寅の水」といわれる大洪水では、この堤防が破堤したため、14代藩主が修築し大いに喜ばれたと、僧都の石碑に刻まれており、藩政期における洪水との闘いの様子がうかがえます。
堤防をめぐる騒乱「水除(みずよ)け争い」と「印石(しるしいし)」
 藩政時代、石井町藍畑中須(中洲)は吉野川と神宮入江川にはさまれた、洪水常襲地帯でした。神宮入江川の南には元村という地区があり、かつてこの隣り合う村内二地区で、「水除け争い」がありました。元村地区は中洲地区より地盤が低く、洪水によって度々冠水したため、藩に新堤を築きたいと嘆願し続けていました。これに対し中洲の人々は、堤防ができると水が中洲地区に滞留する危険性があるため、築造に異議を唱え、長い間、争いが絶えませんでした。
 嘉永四年(1851)、郡代が両者の話を聞いたうえで、元村の人々に中洲地区の土地と同じ高さの堤防(高さ約90cm・幅約7〜11m)を築くことを許しました。
 その後、元村の人々がこの堤防に土を盛った為再び争いが生じました。今後争いが起こらないようにと、石柱の上部に決められた堤防の高さを示す横線と「印石」という文字を刻み、堤防の各所に埋め込む対策を講じました(現在、石井町藍畑の産神社境内に設置)。
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