新田開発の要は、堤防工事にあり

■坂東茂兵衛と豊岡茘敦

 松茂町の豊岡神社境内に、豊岡開拓碑がある。碑には、豊岡の地が江戸時代後期の文化元年(1804)に、宮島浦の庄屋・坂東茂兵衛によって開拓されたことが刻まれている。この頃の新田開発の多くは、豊かな財力を持つ大坂や徳島の商人が、藩に開発許可を求めるために献上金を納めて権利を得たのち、他村から移住した人々の労働によって開発が進められるというものであった。
 当時の北方では、藍が一円に栽培され、そのため米不足は深刻であった。そこで藩は、不毛の土地を水田にかえて米づくりを補う必要があった。そのため新田開発には五年ないしは十年の期間を定め、この期間は年頁を免除したり、作物の制限をゆるめたりしている。つまり優遇措置による新田奨励策がとられていたのである。
 坂東茂兵衛は、享和元年(1801)、笹木野村・住吉新田と長原浦との間に残った萱野の260ヘクタールのうち110ヘクタールを開拓するとして、百五十両の冥加金を上納して許可された。
 工事は、南側に石垣の堤防を築き、杭木を二列に打ちつらね、捨て石で固めていくというもので、比較的短期間のうちに一応の堤防を完成させたと伝えられている。
 しかし、堤防ができたとはいえ、その後の開拓は困難であったB海岸に近く、今切川河口に位置するだけに、毎年の洪水と波浪によって堤防が頻繁に決壊し、海水が浸水することしばしばであった。このために、二十万本の松を植えて、防潮、防風林とした。現在の「松茂」の名はこうした防潮・防風林に由来している。
 さて、天保四年(1833)頃には、当初の計画の110ヘクタールのうち、五分の一の22ヘクタールが田畑となったが、残りは水溜りや萱野、荒れ地のままであったのである。
 その後の豊岡新田の開発に重きをなした人物が、坂東茂兵衛の孫・坂東黙之丞、のちの豊岡茘敦である。祖父が開拓した豊岡新田を好み、姓を豊岡と改めたもので、茘敦は号である。
 のちに茘敦は、大庄屋となり今切川の治水・利水に功績をあげ、政治家として活躍したほか、明治維新後には『疏鑿迂言』を著し知事に建白するなど、学者としても活躍した。


     豊岡茘敦
文化五年(1808)に、川内村宮島浦の組頭庄屋の家に生まれ、のちに宮島浦の庄屋と三代目豊岡新田の名主を兼ねた。幼少より学問にすぐれ、その博学と記憶力は多くの人を驚かせたという。若くして今切川筋の用水裁判人に抜てきされ、難題を解決し「名庄屋」といわれた。農芸、堤防、水利など経済分野の学間を究めたが、仏典、西洋訳書にも詳しく、また詩文、書画も得意で、晩年は広瀬旭窓、柴秋邨、四十宮石田らの文人との交遊を深めた。明治十一二年(1880)、七十三歳でその生涯を閉じた。

豊岡茘敦開拓碑
松茂町 松茂町指定有形文化財