■農業が発展した元禄時代
この袋井用水が開削されたのは、幕藩体制が初期の成立期を経て、その展開期へと向かう元禄時代である。徳島藩では商品経済の発展が著しく、特に農村では新田開発の拡大政策が打ち出され、農業技術の進歩、金肥を用いる施肥や農具の改善を背景に、商品作物の栽培など農業生産が著しく増大し始めたときであった。そうした社会背景にあって、藩としても用水の必要性は十分わかっており、大河小川を利用して努めて井堰をつくり、潅漑の便をはかったが、地形によっては用水の導入が容易でないところが多かった。そのひとつに、当地域もあった。加えて必要とはわかっていても、開発に長い歳月と多くの労力、多額な費用を投入することは当時の藩には重荷であり、当地域の用水は手つかずの状態であった。
こうした地域の農民くらい哀れなものはない。干天の日、むなしく天を仰いで雨乞いを神に祈り、あるいはまたわずかな水を求めるため、血で血を洗う水争いの悲劇をくり返すこともあった。こんな窮状を黙視できずに奮い立ったのが、楠藤吉左衛門である。
彼の決意と行動は、次のようなエピソードとして伝えられている。
■水源地探し
「水は必ずある。掘れば水は出る。水源地はきっとできる」という確信を持っていた。それは庄村から蔵本村へかけてもと佐吉川の流れた跡が残っていて、ところどころにガマやアシなど水辺に育つ草が生え、ところどころに水溜りができていることを知っていたからである。吉左衛門は昼間ちょっとでも時間があると鍬をかついで外出した。そして地面の低い水が出そうだと思われるようなところを目あてに掘ってみる。夜は夜で黙って家を出るとところかまわず寝ころんで地面に耳をあてた。もしや地面の下で水の流れる音が聞こえはせぬかと一心不乱ー夜遅くまで探しまわるのである。村の連中は「庄屋の旦那は気が狂った」と噂し合うようにさえなった。
だが、吉左衛門は毎日、水源地探しに夢中になった。そしてあるとき、吉左衛門は上鮎喰往還の南方堤の下に水が少し湧き出していてガマが生えているのを見て、昔の水脈を考え、水源地の溝となることを確信した。
■困難を極めた水源地の掘削
郡奉行に願い出て幅十間(約18メートル)、長さ二百間(約360メートル)の用水堀を掘る許可をとりつけて工事に着手したわけだが、その間再三にわたる掘削許可出願に、藩は難色を示したという。ようやく計画の半分のスケールの規模なら良しとする藩の許可を得て、勇躍として農民総動員で出役。水源地掘削工事は始まった。
大量の土砂の運搬に鍬ともっこによる土木作業は難渋を極めた。待ちに待つ水はいっこうに出てこない。農民の失望の色は濃い。やがて冷笑に変わって、とうとう工事現場には吉左衛門ひとりが立ちつくしていた。工事費一切を自弁しての事業ーこのとき、吉左衛門の胸に去来した思いはどのようなものであったろう。
『吉野川百年史』は、「しかし吉左衛門は諦めず、夜中人の寝静まったころ、彼の考えている場所にうち伏して、水の音を聞き定め、改めて又の日に、なお一尺(約30センチメートル)ほど掘り下げても水が湧き出ない時には、我首を奉りますと官に申し出て許しを乞い、再び穿ったところ、にわかに水の湧くことを噴き出すように、その辺りを浸し溢れた。人々皆感動したという」と、水脈を掘り当てた臨場をドラマティックに描き出している。
■三代にわたる水路の拡張
吉左衛門は水路造成工事の完成の目安がついたとき、神仏への感謝の念をこめて、百か日の四国霊場五か所参りに出た。享保五年(1720)、十五番国分寺本堂前に「結願奉納碑」を建立した。
水源地が完成したのちも、子・善平、孫・繁左衛門に受け継がれて水路は拡張されていった。この楠藤家三代によって袋井用水は完成し、島田・庄・蔵本各村の数百町歩の水田は潤い、農業生産は一段と発展したのである。
徳島市国府町矢野の
阿波国分寺境内 奉行は楠藤吉左衛門の功を賞し、褒美米三十俵を与えたが辞退し、享保五年(1720)徳島市国府町矢野の国分寺に結願奉納碑を建立し、仏の加護に感謝した(『徳島県百科事典』)。 |

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楠藤吉左衛門
承応元年(1652)、阿波国名東郡島田村で生まれた。家は地主で肝煎役。享保九年(1724)没。 |
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