京都商人の悲願

■新田開発の歩み

 吉野川下流の海に近い低湿地は、十六世紀頃から本格的に始まった新田開発・開拓事業によって形成された地域が多い。
 この新田開発によって阿波国は正保二年(1645)には石高十八万七干石、村数四百十七であったのが、元禄十年(1697)には石高十九万四干石、村数四百五十五に増加したという。約半世紀の間に村数三十八の増加と石高七干石(他の産物の石高換算を含む)の増収である。



三島泉斎の宝筐印塔 徳島市川内町若宮神社内

■笹木野の開拓

 吉野川デルタに位置する笹木野(松茂町)は、十七世紀中頃に、京都の豪商三島泉斎が干拓したのが、村の始まりと伝えられている。伝承によれば、三島泉斎が有馬温泉へ湯治に出かけたときに、大松村(現在の徳島市川内町)の量豪・近藤吉兵衛と知り合い、笹木野の新田開発を勧められたのがきっがけだといわれている。泉斎は現地を見学したうえで、新田としての将来性が豊かであると確信し、私財を投じて開拓の事業に取りかかった。それは、笹木野・加賀須野・平石の三村にわたる390ヘクタールの広大な萱野を一度に干拓しようというものであった。
 しかし、笹木野は、旧吉野川と今切川に囲まれ、土地が低かったために、洪水・津波の被害をたびたび受け、事業は困難を極めた。ついに三島泉斎は破産し、失意のうちに没した。
 その後、干拓事業は何人かの商人たちに引き継がれ、最後は徳島藩の内外から土地を求めて移り住んだ入植者たちの努力によって、144ヘクタールの新田村としての「笹木野村」が誕生したのである。
 川内町平石の若宮神社には、三島泉斎を祀り、寛政十一年(1799)二月に建立された三島泉斎宝筐印塔があり、笹木野春日神社境内には、泉斎を祀る新宮社がある。
 また、泉斎の屋号である「永丸屋」にちなんだ「えいがん堤」と「いんがん堀」の名は、今に残る遺跡である。「えいがん堤」は、平石と米津・富久・富吉の各新田の境界を南北に走る旧堤防で、築堤に用いた土は、徳島城下の佐古山から別宮川を渡って運んだといわれる。また笹木野を東西に貫く掘り割り用水である「いんがん堀」は、新田の利水のために築かれた水路で、今も形を変えて残っている。これら「えいがん堤」と「いんがん堀」は、泉斎の功績を物語るモニユメントといえるだろう。