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■先人たちの夢の実現
徳島県屈指の大農業用水「麻名用水」が完成したのは明治四十五年(1912)である。着工が明治三十九年(1906)であるから、じつに足かけ七年におよぷ大事業であった。
吉野川右岸(南岸)の鴨島町から石井町にまたがって、南北二つの幹線と多くの支線水路が設けられ、干二百五十四町歩あまり(大正三年調べ)の水田を潅漑できるようになったのである。
これは、吉野川の水を農業用水として利用しようと考えていた先人たちが描いた夢の実現でもあった。
幕末から明治にかけて、吉野川の利水を提唱した人に、後藤庄助、庄野太郎、豊岡茘敦、林基茂がいる。彼らは、吉野川流域に大規模な用水路を開削することによって、藍作から米作への転換をはかり、農業経営をより安定したものにしたいと願っていたが、彼らの壮大な構想は容易には実現には至らなかつた。
その理由は、技術的な困難さに加えて莫大な財政負担を強いるということもあったが、利水を実現するには、それ以前に吉野川の治水をどうにかしなければならないという問題もあった。加えて、「明治末期までは、流域農民の間にも米作転換を望む村々と藍作継承を固執する村々は、互いに鋭く対立していたこともあり、さらに藍作志向の村落でも下層の藍作人が米作に夢を託していたのに対して、上層の藍商や藍師たちは生産構造の変化を望まなかったというように、それらの村落内部でも意識は激しく対立していたことを無視できない。そのため米作転換にも必要な農業用水の建設には、その意識が一つに結合されるのは、ドイツから化学染料が大量に輸入され、阿波藍の売れ行きが大きく落ちた明治三十六年(1903)を待たなければならなかったのである」(三好昭一郎『吉野川の利水と流域産業』)。
麻名用水の建設までの紆余曲折を見てみると、この時代にあって、いかに利水が困難だったかがわかるだろう。
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■麻名用水の計画と反対
最初の計画が立てられたのは、明治三十二年(1899)である。岩津の淵から引水し、麻植・名西両郡の田畑を潅漑するというものであったが、この構想を現実のものにしていく過程は並大抵のものではなかった。麻植・名西両郡長が発起人となり創立総会を開催し、水利組合条例の制定にまでこぎつけたが、藍作に固執し米作に不安を持つ者、巨額の負担金に不満を述べる者などの賛成が得られず、この計画は頓挫してしまった。
このときの麻植郡長が、井内恭太郎である。井内ら推進関係者は、再三に渡って用水案の実現を説いてまわったが、農民は聞く耳をもたなかった。このときの様子が、麻名用水碑に刻まれている。
「当初反対論者ハ地価反百二三十円ニ過キサルニ用水費反八十余円ヲ費スハ本末ノ序ヲ失ヘリトテ言論二文章二悪罵シ愁訟シ有ラユル手段ヲ尽シ或ハ主唱者及ヒ創立委員ヲ脅迫シ威嚇シ或ハ主唱者二危害ヲ加ヘントセシコト幾度ナルヲ知ラス」
事業負担金をめぐって、反対論者から危害すら加えられた様子が活写されている。そして翌三十三年に、井内は美馬郡長へと転任してしまう。
ところが、明治三十七年(1904)にこの地域一帯が大干ぱつに襲われた。これがきっかけとなって、麻名用水計画が再浮上し、実現要請の気運が一気に高まったのである。用水による米作栽培を強く要望する森山・牛島・浦庄・高原・石井の五か町村(のち高川原村が加入)の水利組合を組織し、当初の岩津の淵から取水するという案を改め川島城山より引水するという計画が立てられた。翌三十八年(1905)には「紀念麻名普通水利組含」が結成され、管理者に井内恭太郎が就任した。このとき井内は名西郡長の職にあり、主唱者みずからがその実行責任者として敏腕をふるうことになったのである。ちなみに「紀念」と冠せられたのは、この年の日露戦争の「戦勝」を記念してのことである。
■麻名用水の完成
工事は明治三十九年(1906)に起工され、明治四十一年(1908)、待望の通水式を迎えるに至る。さらに支線水路の工事を終えたのは明治四十五年(1912)のことであった。その後、下流の受益者の中に用水不足を訴える者が多いため、この対策として二年にわたる飯尾川引水事業を新たに計画して解決をはかり、大正三年(1914)全工事を完了した。
麻名用水の建設は、明治三十年代以降における藍作経営の衰退を背景としており、米作への転換という農業基盤の再編成をめざした重要な意義を持つ利水事業であったということができる。
麻名用水碑には、先の碑文に続いて、「然レトモ主唱者ハ最初ヨリ一身ヲ犠牲トシ隠忍自重遂ニ今日有ルヲ到セリ」と記されている。主唱者とは、むろん井内恭太郎のことである。名西高校の南にある水利組含事務所前には、彼の銅像があって、その碑文には、その人となりを「剛直」にして「敦篤」と刻んである。
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