大坂鴻池の商業資本を導入した治水勧農家の功績

■住吉新田の開発

 伊澤亀三郎は、新田開発においても、その名を今に残している。
 伊澤亀三郎が、板野郡宮島浦(現在の徳島市川内町)から長原浦(松茂町)にかけての萱原400ヘクタールの広大な湿地を開発しようとしたのは、天明三年(1783)のことである。開発にあたって、亀三郎は大坂商人・袋屋作次郎の資力を仰ぎ、五百両を藩に献上し許可を得ている。
 工事は、現在の今切川をはさんで南北に分けて行われた。北側では長原浦と笹木野村の間の萱野を干拓するために、長原浦に大きな堤防をつくった。また南側では、宮島浦の北側に新田を開く計画であった。
 ところが、完成したばかりの長原浦の堤防が、翌年の洪水によって跡かたもなくなってしまった。


住吉新田碑 吉野川河口右岸(南岸)にあるこんもりした森に守られている。

そのため、袋屋作次郎はこの事業から撤退し、亀三郎は開発資金がなくなってしまった。困ったあげく、大坂商人・鴻池清助に援助を求めた。今度は、笹木野村の北端と西端を石積みの堤防で結び、間に拡がる湿地を干拓するというものであつた。
 こうして天明七年(1787)に笹木野の堤防が完成し、新たに築かれた新田は「鴻池新田」と名づけられた。これが、のちの「住吉新田」(鴻池家の祭神であった大坂の住吉大社の名前をとったもの)である。
 伊澤亀三郎は文政五年(1822)、小奉行格となり、知行に三人扶持(一人扶持は一日玄米五合)支配七石を給されている。士分格になった亀三郎は、居を徳島に移すが、それから三年後の文政八年(1825)七月、病を得て伊沢村に帰り、その地で永眠した。享年七十六歳。
 のちに亀三郎の事業は、その養子・速蔵、孫・文三郎へと受け継がれ、今日でも、治水勧農といえば伊澤家三代がすぐに思い起こされるほど、徳島藩の発農に尽くしたのである。