阿波五街道 阿波歴史街道
庶民の交通を支えた峠道
 隣国との交通は、主要街道である阿波五街道だけでは不十分だったので、それらを補完する脇街道的な道がつくられていきます。江戸時代の初期の阿波国交通の取り調べ書「阿波国海陸道度之帳」では、板西郡黒谷越え・同宮河内越え・阿波郡日開谷越え・美馬郡曽江谷越え・同大瀧寺越え・同郡里越え・同重清越えや三好郡太刀野山越え・同昼間越え・同箸蔵山越え・同西山越え・同野呂内越え・同まんた峰越えの合計で十三カ所の峠道が記録されています。阿讃国境にはたくさんの峠道があったことがわかります。
 さてこの中でも、重清越えや野呂内越えなどの美馬・三好郡の峠道は”借耕牛”が讃岐へ通った道として知られています。借耕牛とは、毎年春・秋の農業の忙しい時期に美馬・三好・麻植郡の山分の農家から讃岐国の農家へ貸し出された耕作用の牛のことです。借耕牛ははじめは砂糖製造に使われ、のちには田植えや麦の種蒔きにも使用されました。この牛を借りたお礼は夏は六月はじめから約一ヵ月間で米約60キロ、秋は十月末から年末まで約二カ月で米約130キロと高額で、貸し出した美馬・三好・麻植郡の農家には喜ばれました。なお、この借耕牛は江戸蒔代のはじめにはすでに行われていたといわれています。そして昭和三十年代まで続きました。
 またこれ以外にも徳島藩で公式に記録されていなくとも無数の峠道があり、人々の往来を助けていました。「蜂須賀治世記」では、讃岐国の金比羅参詣の帰りには、三好郡芝生村(三野町)に讃岐国からの抜道を利用して往来していたという話が紹介されています。こうした話がどれほど一般的であったかわかりませんが、ただ手形を持たず番所を通過したり、間道を通つて国境を越えていた人たちがいたことは事実でした。
 なお、讃岐国境の村々では、古くからこれらの峠道を利用して往来していました。そればかりでなく甘蔗(さとうきび)栽培などの農作物やその加工技術を互いにやり取りしていましたし、讃岐国(香川県大川郡引田町)と板野の村々とは結婚の面でも国境を越えてまとまっていたのでした。峠道は昔から山によって隔てられた地域に住む人々にとってはほかの地域と交流するためのかけがえのない手段だったのです。そして峠道は生活習慣や文化にいたるまで大きな影響をもたらしました。
BACK 阿波五街道トップ