むかしの肱川

江戸時代
 江戸時代(えどじだい)も、それ以前も水害(すいがい)のおこる場所として、大洲盆地(おおずぼんち) は有名な場所でした。 
江戸時代(えどじだい)は、洪水(こうずい)(ふせ)いでくれる堤防(ていぼう)はまだありませんでした。1688年から1860年までの172年間のなかで、なんと62年間にわたって洪水(こうずい)確認(かくにん)されていました。つまり、3年に1回は洪水(こうずい)があったということになります。
このため、当時の人々は、生活の知恵(ちえ)から、家を()てる場所や()(かた)をくふうして洪水(こうずい)(そな)えました。

くふう1: 安全(あんぜん)な山すそや自然(じぜん)にできた堤防(ていぼう)のような場所に家を()てた
洪水 (こうずい)がおこりやすい、盆地(ぼんち)平野部分(へいやぶぶん)にあたる低い土地では川がはんらんすると、家はすぐに流されてしまいます。それをさけるため、少しでも、高いところに家を()てたのです。

くふう2:家を2階建(かいだ)てにした
家を2 階建(かいだ)てにして、1階部分(かいぶぶん)が水つかっても、2階部分(かいぶぶん)に、にげれるようにしました。 

くふう3: (ゆか)地面(じめん)よりも1mくらい高くした
(ゆか)通常(つうじょう)地面(じめん)の高さよりも1mくらい高くすることで、洪水(こうずい)になったときでも水を入りにくくしました。 

くふう4:かべにこし板をはって保ごした
かべをこし板という板をはって補強(ほきょう)して、水を入りにくくしました。

くふう5:1(かい)部屋(へや)を板ばりの部屋(へや)としていた
階部分(かいぶぶん)に水が入ってもまた使えるように板ばりでできた部屋(へや)としていた家が多く見られました。

さらに大洪水(だいこうずい)にそなえて、6箇所(かしょ)の「水防場(みずよけば)が作られました。一般(いっぱん)の家よりもさらに1.5mほど高く土を() って作られていて、「高石垣(たかいしがき)」の家といわれました。
大洪水(だいこうずい)のときには、これら「高石垣(たかいしがき)」の家にひなんしていました。
そのころのお殿様(とのさま)も、洪水(こうずい)による被害(ひがい)を少しでもへらせるように、治水(ちすい)(ちから)(そそ)ぎました。
その1: 水位(すいい)観測(かんそく)
川の水の高さをしらべて、洪水(こうずい)がおこる段階(だんかい)観測(かんそく)しました。

その2:「ナゲ」の作成
石を()んで洪水(こうずい)の流れをコントロールしました。

その3: 水防林(すいぼうりん)の作成
集落(しゅうらく)を守るため、集落(しゅうらく)の近くの肱川(ひじかわ)の岸に、2mくらいの土手を作り、そこに竹をうえて、じょうぶな水防林(すいぼうりん)をつくりました。

これら、土手や水防林(すいぼうりん)水防場(みずよけば)高石垣(たかいしがき)(いえ)はいまも肱川(ひじかわ)の近くに残っています。
さらに、洪水(こうずい)のためにわからなくなった田んぼや畑のとなりの家との境界線(きょうかいせん)によるけんかがおきないように、ボケやマサキといった木をうえて、土地の境界線(きょうかいせん)をしめしました。 
これらも、五郎(ごろう)若宮地区(わかみやちく)などに残っています。
大洲付近洪水表
大洲付近洪水表(おおおずふきんこうずいひょう) (大洲市立博物館所蔵の洪水年譜より)
年と家と寸法(すんぽう)が記入され、この年には、この高さまで水がでていたという記録(きろく)がなされています。 

今でも残っている治水の知恵と対策
水防場(みずよけば)(須賀神社)
洪水に備えた家
壁にはこし板を張って補強し洪水に
備えています。

ナゲ(渡場)
五郎地区の境木

明治時代から今日まで

明治時代になってからも、洪水(こうずい)への対策(たいさく)や、改修(かいしゅう)実現(じつげん)には (いた)りませんでした。 
昭和の時代にはいり、ようやく治水事業(ちすいじぎょう)がはじまりました。大量(たいりょう)流木(りゅうぼく)によって、橋や家が破壊(はかい)され死者(ししゃ)行方不明者(ゆくえふめいしゃ)45人がでた 昭和18年7月の大洪水(だいこうずい)翌年(よくとし)から、わたしたち大洲河川国道事務所(おおずかせんこくどうじむしょ)前身(ぜんしん)である肱川工事事務所(ひじかわこうじじむしょ)が、工事を行ったのがはじまりです。
その後も、昭和20年9月には、死傷者(ししょうしゃ)65人をだした大洪水(だいこうずい)筆頭(ひっとう)に、平成10年までに、おもな洪水(こうずい)だけでも14(けん)もおこりました。

年月日

流量
(m3/S)

降雨原因

昭和18724

5,4001

低気圧

昭和20918

5,0002

枕崎台風

昭和38810

2,200

台風9

昭和40917

2,900

台風24

昭和45821

3,200

台風10

昭和51911

2,200

台風17

昭和5572

2,200

梅雨前線

昭和57724

2,000

梅雨前線


年月 日

流量
(m3/S)

降雨原因

昭和57827

2,800

台風13

昭和62718

2,500

梅雨前線

昭和63625

2,400

梅雨前線・台風4

平成元年919

2,200

台風22

平成5728

2,500

台風5

平成594

2,400

台風13

平成774

2,900

梅雨前線

平成101018

2,400

台風10


残っている中で一番古い大洲平野の洪水写真
昭和9年9月21日(室戸台風)

昭和18年7月13日の
大洲市街の洪水写真 1
肱川橋まで水につかっています。

昭和18年7月13日の
大洲市街の洪水写真 2
水は1階の天井付近まできており、死者行方不明者45名、床上しんすい4,582戸 床下しんすい2,895戸、流された家屋123戸に達しました。


昭和18年7月13日の
大洲市街の洪水写真 3
大地震も洪水も、
人々の命や生活をおびやかします。
現在の同じ場所様子
(平成16年7月)

昭和34年3月には、肱川総合開発(ひじかわそうごうかいはつ)一環(いっかん)として鹿野川(かのがわ)ダムが完成し、洪水(こうずい)調整(ちょうせい)を行うための機能(きのう)整備(せいび)が行われました。
さらに昭和57年3月に野村(のむら)ダムが完成し、洪水(こうずい)調整(ちょうせい)宇和島市(うわじまし)など他の地域(ちいき)への水道水(ずいどうすい)八幡浜市(やわたはまし)かんがい用水(ようすい)補給(ほきゅう)を行っています。 
ダムを作って治水(ちすい)洪水(こうずい)(ふせ)いでいくだけでなく、砂防事業 (さぼうじぎょう)でも、昭和19年から取り組み、昭和42年の、嵯峨谷(さがや)堰堤(えんてい)の完成まで続けられました。 
それでも、肱川(ひじかわ)は、台風(たいふう)梅雨前線(ばいうぜんせん)活発(かっぱつ)になったとき、私たちの生活を何回もおびやかしてきました。
肱川の上流にある既設ダム(野村ダム:左  鹿野川ダム:右)

昭和60年代に入ると、大洲盆地(おおずぼんち)平地部(へいちぶ)をしめ切るために、肱川(ひじかわ)下流(かりゅう)に対しても対策(たいさく)を行いました。
肱川(ひじかわ)下流部分(かりゅうぶぶん)は、平地(へいち)の部分が(せま)いため、川の事業(じぎょう)だけでなく、道の事業(じぎょう)や土地の区画整理(くかくせいり)を行う事業(じぎょう)を行っている3つのそれぞれの力を合わせて治水(ちすい)事業(じぎょう)を行いました。
川のそばの家を、より高い安全な場所に(うつ)したり、堤防(ていぼう)を作りました。
しかし、平成7年7月に床上(ゆかうえ)しんすい768戸、床下(ゆかした)しんすい429戸の大きな洪水(こうずい)が発生し、「直轄河川激甚災害対策特別緊急事業 (ちょっかつかせんげきじんさいがいたいさくとくべつきんきゅうじぎょう)」が採択(さいたく)され、平成7年度から平成11年度までの5年間にわたって、平成7年の洪水(こうずい)と同じくらいの洪水(こうずい)であれば、ふたたび、被害(ひがい)がおこらなくなるよう対策(たいさく)を行いました。

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