タイトル
昭和29年の台風
紹介日
洪水体験集より
投稿者
隅田良佑さん
(昭和29年の台風)
昭和29年の台風時に、石井町の火葬場付近、つまり六条大橋から下流100m〜200m付近を警戒する任務に就いていた。当時22〜23歳の警察官であった。石井町側にも、藍住町側にも、警察官や消防団の人がたくさん出て、堤防や堤内地の監視をしていた。
吉野川の水は堤防の頂点から2〜3mのところまで来ていた。堤外の竹藪は、流れの強さに倒され、先が見えるか見えないかという状態だった。本流の流れは速く、家や材木がスッーと流れていった。堤防は前日までの雨で膿んでいた。当時、堤防にはアスファルトも砂利も敷いていなかった。飛び上がると、堤防が振動した。それほど、堤防に水が浸透し、飽和状態となっていた。
その時に目撃したことの1つは、火葬場の取り合い道路と堤防の境が2〜3cm程度隆起していたことである。吉野川の水圧により、堤防が堤内側に動いた結果だと思った。隆起は火葬場の敷地の15m程度については確認できたが、その延長については畑だったので、隆起しているかどうか確認できなかった。
もう一つ目撃したことは、吉野川の水圧で川の水が堤防の下を浸透して、堤内の畑の至る所からドロ水が噴き出しており、噴き出る穴がどんどん大きくなっていったことである。1反当たり2、3ヶ所噴き出ていた。土のうを放り込んだりしたが、あまり意味はなく、すぐに横からドロ水が噴き出てきた。穴の大きさは分からないが、ドロ水が噴き出る輪の大きさは直径1m〜2m位だった。
目撃した2つのことから、水圧を下げないと、堤防が切れると思った。水圧が早く下がってくれないかと、祈る気持ちだった。この時、水圧は第十堰のせき上げによってもたらされていると思った。
その時の台風で、西覚円の堤防が決壊しそうになった。早鐘が鳴り、藍畑の消防団が警戒態勢に入った。藍畑小学校の校庭の土を土のうに入れてダンプで西覚円の堤防に運んだ。この時、西覚円の堤防の堤外側が侵食されており、もう少し洪水が長引けば西覚円の堤防は切れていたと思う。
吉野川の水圧により堤防が堤内側に動いた
吉野川の水が堤防の下を浸透して、畑から噴き出した