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洪水の歴史 吉野川~歴史の扉~
古来、吉野川は一定の河道を持たず、洪水のたびに流路を変えてきました。
この暴れ川が引き起こした洪水と水害はどのようなものだったのでしょうか。
幕末の阿波を襲った大洪水「寅の水」をはじめとして、過去の洪水と水害を歴史年表で振り返ります。
  

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享保七年(1722)【大洪水】

享保七年(1722)大洪水

この年は、6、7、8月と毎月、大洪水が襲った。『蜂須賀家記』には「御国風雨洪水」あるいは「人家流失、死者多数」という表現で記される。 享保年間の農民の暮らしぶりについては、藩政時代、板野郡住吉村で代々組頭庄屋(くみがしらしょうや)をつとめた山田家に、藩政時代の農村の様子を伝える貴重な史科が数多く残されており、『山田家史料』を調査した武知忠義氏が『徳島近代史研究』という本の中で、その実態を紹介している。それによれば、当時の農民の家屋はほとんどが掘立小屋で、地盤に石を敷いた家はわずかしかない。家の大きさも二×二間あるいは二×三間というものであった。また厳しい年貢の取り立てと水害によって、年貢が払えないため、田畑を召し上げられ、借家住まいや流浪人になり下がる者がでるなど、大変な窮乏に見舞われていることがわかる。
 享保十四年(1729)【大洪水】
 元文三年(1738)【大洪水】
 元文四年(1739)【大洪水】
 寛保元年(1741)【大洪水】
 延享三年(1746)【大洪水】
 宝暦元年(1751)【大洪水】
 宝暦五年(1755)【大洪水】
宝暦六年(1756)【大洪水】

宝暦六年(1756)大洪水 場所:鴨島町牛島

稲垣監物碑
<稲垣監物碑>
まだ吉野川に堤防のなかった藩政時代、毎年川は荒れ放題だった。宝暦6年(1756)の大洪水で、飯尾川に沿った牛島村の人々は、堤防を築いて牛島東部への水の侵入を防ぐとともに水を南の向麻山(こうのやま)の麓の方へ放流しようとしたが、上浦地区では浸水地域が広がると反対していた。藩主の許可がなかったので、藩士稲垣監物は非常手段として一夜の間に牛島地区の農民を督励して堤を築き、自ら全責任を負って切腹し、果てたと伝えられている。農民はその徳を慕って字桑上に稲垣神社を建立し、現在も祭りを続けその霊を慰めている。
 寛政三年(1791)【洪水】
享和元年(1801)【洪水】

享和元年(1801)洪水

『山田家史科』には、洪水のたびに組頭庄屋が組村の被害状況を調べ、郡代に提出した調査報告書も残っている。
例えば、『享和元年八月十九日廿日風雨出水二付川成砂入土流立毛損亡約帳』(きょうわがんねんはちがつじゅうくにちはつかふううしゅっすいにつきかわなりすないりどりゅうたちげそんもうつづめちょう)によると、享和元年(1801)の8月19日から20日にかけて洪水があったことが知られる。「川成(かわなり)」とは、田畑に土砂が流入し河原のような荒廃地になった状態を指し、「砂入(すないり)」とは砂が入った程度で復旧可能な状態、また「立毛(たちげ)」とは作物が生育しつつある状態を指す。
 文化元年(1804)【洪水】
 文化十二年(1815)【大洪水】
 文化十四年(1817)【大洪水】
天保十四年(1843)【七夕水】

天保十四年(1843)七夕水 場所:阿波

7月5、6日に襲った洪水で「七夕水」と呼ばれる。50年来の大水といわれ、『川内村史』によれば、7日朝から翌朝までに、酒の六尺桶(ろくしゃくおけ)に2杯もたまったという。このときの洪水は、阿波に降った集中豪雨によるもので「御国水(おくにみず)」であった。「御国水」とは、阿波領内に降った雨によって起こる洪水を指し、これに対して、阿波国は好天気か小雨なのに、吉野川上流の土佐で大雨が降ったときに、吉野川流域に大水が急襲するものを「土佐水(とさみず)」とか「阿房(呆)水(あほうみず)」といった。
嘉永二年(1849)【酉の水(阿呆水)】

嘉永二年(1849)酉の水(阿呆水) 場所:鳴門市大麻町、山川町等

大風雨が7月8日から11日まで続き、『蜂須賀家記』によると「水は勝瑞(しょうずい)村一円に溢(あふ)れ、人家が漂流した」とある。
旧吉野川筋の板東(ばんどう)村(鳴門市大麻町)で百間が破堤、水位は七尺にもなった。
徳島市川内町では堤防33か所が決壊、河口域の鶴島、宮島、富吉、富久、米津の堤防は内側からの増水で決壊したため、海水が侵入した。
山川町では川田堤防が決壊し、三好(みよし)郡代所の調べでは、死者250名を記録している。
安政元年(1854)【安政南海地震】

安政元年(1854)安政南海地震

松茂(まつしげ)町中喜来の春日(かすが)神社境内にある敬諭碑(けいゆひ)がこのときの惨状を詳細に伝えている。突然の揺れによる家屋の倒壊と火災、津波による田畑の冠水などのほかに、碑文で特に注目されるのは、大地から水が吹き出したことが記されていることである。今でいう「液状化現象」にほかならない。
村人たちは恐怖と流言飛語に戸惑う一方で、お互いに助け合って避難生活を送ったとある。
先人が残した防災のメッセージである(この地震は正確には嘉永7年に起こったが、これを契機として安政と年号が変わったため一般には「安政南海地震」と呼ばれている)。
安政四年(1857)【八朔水】

安政四年(1857)八朔水 場所:板東、津慈、川崎、三俣周辺

「八朔」とは陰暦の8月1日のことで、このときの洪水を「八朔水」という。7月29日から降り始めた雨は、8月1日になって豪雨となり、旧吉野川の堤防が破堤し、板東、津慈、川崎、三俣周辺一帯が浸水した。また別宮川が増水したため、鈴江堤防が切れ、川内町で350戸が倒壊した。
慶応元年(1865)【洪水】

慶応元年(1865)洪水

慶応元年(1865)に発生した飯尾川の大洪水は、ひとつの神社をまるごと押し流してしまうほどの水量であった。鴨島町中島の諏訪神社である。大正12年(1923)に現在地へ移転されたこの神社は、もともと飯尾川の洪水のために西方の上下島・諏訪に流されてきたものであった(『かもじま町の歴史とゆたかな文化財』)。
慶応二年(1866)【寅の水】

慶応二年(1866)寅の水

  • 蔵珠院に残されている痕跡
    <蔵珠院に残されている痕跡>
死者2,140人から3万余人と記録されている未曾有の大水害であった。
徳島市国府町の蔵珠院(ぞうしゅいん)には、当時の痕跡が今も残されている。過去帳には被害状況が記録され、茶室の壁には「座上二尺」(約60cm)に水位が残されている。なお、この水位は前の畑から約3mの高さになる。
明治十七年(1884)【六、八月の洪水】

明治十七年(1884)六、八月の洪水 場所:石井町付近

明治期に入ってからも洪水は頻発し、3年9月、6年10月、9年9月とたびたび水害に見舞われた。
明治17年には6月、8月と洪水があった。このうち6月28日の洪水は、吉野川の調査に来ていたヨハネス・デ・レーケが遭遇している。そしてデ・レーケが徳島から離れたのちの8月26日には、石井町の堤防が破堤し、79戸が流失するという洪水があった。
さらに明治18年(1885)6月、20年(1887)8月と続き、21年(1888)7月の洪水では、石井町西覚円付近の堤防が破堤した。
 明治十八年(1885)【六月の洪水】
 明治二十年(1887)【八月の洪水】       
明治二十一年(1888)【七月の水】

明治二十一年(1888)七月の洪水

明治18年(1885)から始まった国と県による吉野川改修工事中に起きた洪水で、水害の原因は国の工事ミスによるものだとして、住民が土木事務所を襲撃するという事件があり、工事中止の原因ともなった。
なおこのときの洪水で、県事務所が間借りしていた民家を含む43戸が押し流され、土木監督署員、県土木課員などを含む30名が亡くなった。
明治四十四年(1911)【八月の洪水(土佐水)】

明治四十四年(1911)八月の洪水(土佐水)

いわゆる「土佐水(とさみず)」といわれる大洪水。死者21名、負傷者7名、不明者6名、全壊164戸、半壊308戸、床上浸水13,255戸、床下浸水5,478戸という記録がある。
大正元年(1912)【九月の洪水】

大正元年(1912)九月の洪水

  • 中氏宅の洪水の痕跡
    <中氏宅の洪水の痕跡>
  • 田中家の高石垣を越えた洪水
    <田中家の高石垣を越えた洪水>
9月25日付の『徳島日日新報』はこのときの模様を次のように伝えている。
「21日夜来の豪雨は吉野川をはじめ那賀川・勝浦川両川に絶大の増水を見たり。県下を通じ大小河川の増水を生じ、下流氾濫大洪水と化し、(中略)稲田湖海と変じ民家は湖中の孤島たるに至る」
『板野郡誌』によれば、水かさは田の面上一丈(3メートル)、潮水の浸水五尺(1.5メートル)、三日三晩屋根の上で水の退くのを待っていたという話も残る。
昭和九年(1934)【九月の洪水(室戸台風)】

昭和九年(1934)九月の洪水(室戸台風)

9月21日未明に室戸岬に上陸した台風は北海道を除く全国に猛威をふるった。県下でも多くの家屋を倒壊するなど、人々を恐怖のどん底に突き落とした。特に高潮被害が大きく、23,000軒が浸水した。21日の吉野川の洪水流量は毎秒10,000立方メートルと推定される。
昭和二十年(1945)【九月の洪水(枕崎台風)】

昭和二十年(1945)九月の洪水(枕崎台風)

戦後間もない極度の物資不足と荒廃の真っただ中を襲った超大型台風。徳島の雨量は、16、17日の両日で350~400ミリ程度であったが、上流の高知県の雨量が多かったので大洪水となった。
徳島では最大風速毎秒29.3メートルを記録し、戦災後急ごしらえの市内の仮小屋などはほとんど倒壊してしまった。
 昭和二十五年(1950)【ジェーン台風】
昭和二十九年(1954)【九月の洪水(十二号台風)】

昭和二十九年(1954)九月の洪水(十二号台風) 場所:池田町(岩津付近)

この年は、わずか20日間に4つの台風が襲来する災難つづきだった。なかでも12号台風は、吉野川の治水計画再検討のきっかけとなった著名な台風である。
池田町イタノで14日1時に警戒水位9.0メートルを突破し、最高15.8メートルを記録。ピーク流量が、池田で毎秒12,620立方メートル、岩津で毎秒15,000立方メートルを記録した。これは現在なお既往最大値である。
昭和三十四年(1959)【九月の洪水(伊勢湾台風)】

昭和三十四年(1959)九月の洪水(伊勢湾台風)

超大型の台風で、台風による洪水では、最近で最も甚大な被害を受けた。全国で死者4,759名。
昭和三十六年(1961)【九月の洪水(第二室戸台風)】

昭和三十六年(1961)九月の洪水(第二室戸台風)
場所:宮川内谷川、熊谷川、飯尾川、桑村川、学島川

  • 川島の内水
    <川島の内水>
  • 川島の内水状況
    <川島の内水状況>
  • <「学」駅前付近>
  • 川島樋門堤内呑口
    <川島樋門堤内呑口>
  • 川島内水状況
    <川島内水状況>
  • 内水地区全景
    <内水地区全景>
  • 吉野川出水状況
    <吉野川出水状況>
室戸岬西方に上陸し、徳島市南岸を通り阪神地域に上陸して富山県に抜けた台風。
吉野川上流で総雨量600~700ミリに達する大雨となり、岩津の最大流量は毎秒11,960立方メートルであった。
宮川内谷(みやごうちたに)川、熊谷(くまたに)川など支川(しせん)が各地で破堤したほか、飯尾(いのお)川、桑村(くわむら)川、学島(がくしま)川などで内水被害が続出した。また河口での高潮とあいまって、この洪水による被害は浸水面積6,638ヘクタール、床上浸水15,408戸、床下浸水9,702戸と大きなものであった。
昭和四十九年(1974)【九月の洪水】

昭和四十九年(1974)九月の洪水 場所:岩津上流部、飯尾川など

  • 鮎喰川合流地点
    <鮎喰川合流地点>
  • 中央橋地点
    <中央橋地点>
四国西部に上陸した台風は、上流から下流へ向かってほぼ流域を縦断したため、全体的に雨量が多く、岩津の最大流量は毎秒14,470立方メートルを記録。岩津上流部の無提地区において氾濫被害が発生し、下流部では飯尾(いのお)川などで内水被害が発生した。
昭和五十年(1975)【八月の洪水】

昭和五十年(1975)八月の洪水 場所:岩津

  • 川島内水状況
    <川島内水状況>
  • 川島内水状況
    <川島内水状況>
  • 善入寺島
    <善入寺島>
池田より上流域では雨が少なかったが、それより下流では雨が集中し、岩津の最大流量は毎秒13,870立方メートルとなった。
昭和五十一年(1976)【九月の洪水】

昭和五十一年(1976)九月の洪水 場所:吉野川上流、剣山周辺

飯尾川流域
<飯尾川流域>
吉野川の上流域と剣(つるぎ)山周辺を中心に、総雨量が1,000ミリを超える観測史上最大のものとなり、床上浸水3,880戸、床下浸水25,713戸、全壊流失家屋109戸と甚大なものとなった。
平成二年(1990)【九月の洪水】

平成二年(1990)九月の洪水 場所:城の谷川、桑村川

秋雨前線が停滞していたところへ台風が接近したため、流域の山間部で総雨量は約900ミリに達するものとなった。このため城の谷川、桑村川などの内水地域で被害がひどかった。このとき岩津の最大流量は毎秒11,190立方メートルに達した。
平成五年(1993)【七月の洪水】

平成五年(1993)七月の洪水 場所:岩津上流部

平成5年7月洪水(脇町城の谷地区)
<平成5年7月洪水(脇町城の谷地区)>
岩津の最大流量は毎秒12,080立方メートルに達し、岩津上流部の無提地区において氾濫被害が発生した。
平成十六年(2004)【八、九、十月の台風】

平成十六年(2004)八、九、十月の洪水 場所:流域全体

  • <阿波市・香美橋(台風16号出水状況)>
  • <三好市(台風23号出水状況)>
  • <北島町(台風23号出水状況)>
  • <阿波市・岩津(台風23号出水状況)>
8月31日の台風16号は、約30年ぶりの大洪水を引き起こした。流域全体に多くの降雨をもたらし、多いところで500mm程度の総雨量を観測。池田から岩津間の無堤地区で氾濫被害、内水地区で浸水被害をもたらした。
9月29日の台風21号では吉野川は浸水面積362ha、床上浸水5戸、床下浸水12戸、旧吉野川は、浸水面積72ha、床上浸水1戸、床下浸水8戸の被害があった。
10月20日の台風23号は、観測史上最大級の洪水をもたらした。流域全体で多くの降雨があり、各観測所では400~500mmの総雨量を観測。岩津地点で約16,400m3/sのと戦後最大の流量を記録した。 この洪水は、池田から岩津間等の無堤地区で外水氾濫による被害、飯尾川、城の谷川等で内水氾濫被害を引き起こし、吉野川は浸水面積7,645ha、床上浸水745戸、床下浸水1,975戸と甚大な被害が発生。また、旧吉野川流域でも浸水面積3,120ha、床上浸水139戸、床下浸水457戸の被害となった。
■平成16年台風10号 出水パンフ
■平成16年台風16号 出水パンフ
■平成16年台風23号 出水パンフ
平成十七年(2005)【九月の洪水】

平成十七年(2005)九月の洪水 場所:吉野川上流部

  • <角の浦大橋>
  • <穴吹橋>
  • <四国中央橋>
この年は異常渇水から一転、大洪水となった。9月7日の台風14号により、上流域(池田上流)では多いところで1,000mm程度の総雨量を観測。吉野川の池田地点では6日22時10分に危険水位を超え、7日1時50分にピーク水位9.18mを記録した。吉野川のすべての観測所で警戒水位を超えた。浸水面積 666ha、床上浸水19戸、床下浸水111戸の被害が発生した。
■平成17年台風14号 出水パンフ
平成二十三年(2011)【九月の洪水】

平成二十三年(2011)九月の洪水 場所:吉野川下流部、旧吉野川

  • <飯尾川>
  • <城の谷樋門>
9月21日の台風15号は前線の影響により、台風から離れた地域でも豪雨を観測。吉野川では、徳島市、石井町、吉野川市等で浸水面積4,201ha、床上浸水107戸、床下浸水618戸の被害が発生。旧吉野川では、鳴門市、松茂町、北島町等で浸水面積774ha、床上浸水18戸、床下浸水137戸の被害が発生した。
平成二十六年(2014)【八月の洪水】

平成二十六年(2014)八月の洪水 場所:吉野川上流部、下流部

  • <三好市(台風12号出水状況)>
  • <徳島市(台風11号出水状況)>
  • <北島町(台風11号出水状況)>
8月3日に12号、8月10日に11号と連続した2つの台風と前線の影響により、数日の小康状態を挟んで、10日以上にわたって強い雨が降り続いた。吉野川の池田観測所では、はん濫危険水位を超えた。台風12号は吉野川岩津~池田間で浸水被害が発生し、浸水家屋は25戸(床上17戸、床下8戸)、浸水面積は163haとなった。台風11号は河口から岩津間と旧吉野川を中心に被害が発生し、浸水家屋は123戸(床上22戸、床下101戸)、浸水面積は3,137haとなった。
■平成26年台風12号-1 出水状況
■平成26年台風12号-2 出水状況
平成三十年(2018)【七月の洪水】

平成三十年(2018)七月の洪水 場所:吉野川上流部

  • <三好市井川町出水状況>
  • <美馬市穴吹町出水状況>
  • <東みよし町・山陰谷川樋門排水作業>
これまでの7月降水量第一位を上回る大雨が降った。
吉野川では、総雨量1,000mmを越える雨量を20地点で観測。激しい降雨により、三好市井川町の池田観測所において、6日12時40分にはん濫危険水位(8.00m)を越え、7日1時50分には最高水位(8.78m)を観測した。 内水被害が1箇所、無堤部区間では浸水が発生した。 吉野川沿川に設置している排水機場全17箇所のうち15箇所が稼動し、全箇所で約928万4千m3(東京ドーム約7.4杯)を排水。 さらに排水ポンプ車5台を5箇所に出動し排水作業を行い、全箇所で約51万3千m3(25mプール約1,280杯)を排水した。
■平成30年台風7号 出水状況
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