吉野川歴史情報館
 
思 タイトル 土佐水、大正元年の大水、その他
紹介日 洪水体験集より
投稿者 秋田晴夫さん

(土佐水)

 私は大正5年生まれで、昭和20〜25年は藍畑小学校に、昭和25〜39年は北井上小学校に勤務していた。
 昭和20年か21年頃、藍畑小学校に勤務していたとき、しけの翌日、体操の時間に子どもたち30人と一緒に小学校裏の吉野川の様子を見に行った。天気は良く、水が少なかったので、河原に下りていった。子どもたちは走って行ったが、すぐに引き返してきた。川にいた漁師さんに、早く上に上がれ、と言われたという。そこで子どもたちに「早く走れ」と言い、河原から土手の方に50〜60m程引き返すと、水が膝のところまで来ていた。土手まで上がると、土手から対岸の土手まで水がいっぱいになっていた。一面、ドロ色の水だった。その間、わずか2〜3分程だった。昔から土佐水の話を聞いていたので、とっさに判断し、引き返すことができた。
(大正元年の大水)
 聞いた話では、大正元年の大水時には、私の家の土間まで水が来たという。土間の高さは、前の畑から2m位の高さになる。秋田さん宅の前のお地蔵さんの首まで水が来たという。
(その他)
 大正末期〜昭和5年頃には飯尾川がよく氾濫していた。飯尾川の付け替え以前にはよく氾濫していた。氾濫に備えて、床板がはがれるように釘付けしていない家もあった。氾濫時には床板をはがして、畳を上げてみかん箱等を置いて生活していた。
 土手が切れる心配があるほどの大水の時には、「おちらし」を用意したり、鎌を研いだりしていた。おちらしとは、麦を炒って、殻を摺って、粉にしておいて、必要時にお湯を入れて練って食べるものである。また、鎌研ぎは、洪水時に茅葺き屋根の茅を切って、上に避難するためである。
 飯尾川沿いには、家が流れないように、家の四角に土入りの樽を置いて、ロープで結びつけて流れないようにしていた家があった。

大正元年の大水で首まで水に浸かったお地蔵さん(徳島市国府町)



※土佐水※
 土佐水とは、吉野川下流域では晴れているのに上流の高知県(土佐)で降った大雨により、洪水に襲われることを言います。


大正元年の大水による徳島市の被害を伝える徳島毎日新聞(大正元年9月25日)
大暴風!大出水!
徳島測候所開始以来の最大低気圧=空前なる大降水量

徳島市の出水
 市内の低所なる佐古町裏筋及び佐古村一帯の地方は23日夜如法の大雨にて降溜り出水夥しく大安寺付近は胸部に達する水量なりしが、23日午前8時今切川の堤防40尺決潰と共に濁流滔々と押寄せ居れば爾後尚夥しく増水の模様なりき、而して罹災民130〜140名は大裏丁3丁目福蔵寺に収容救護中なり。
 又富田方面は遊郭付近の堤防は幸いに決潰せざりしも22日夜満潮の際は堤上4、5寸に川水増嵩し滔々として注入したると眉山一帯の降雨は富田方面に停滞したれば22日夕刻より西富田一帯、東富田殆ど全部の町筋は何れも低道膝を没する出水にて床上に浸水する家屋少なからず

(続)