吉野川洪水史 昭和以前
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洪水遺跡と古記録が物語る大洪水の数々
平安時代の二大洪水
 『徳島県災異誌』(徳島県)によれば、古記録に残る洪水は、仁和二年(886)を初めとする。このときと二百十年後の承徳二年(1098)にも大洪水があったとされている。その後の洪水記録は江戸時代までには、数えるほどしか記載されていないが、この間、洪水がなかったというわけではない。ただ古記録がないというに過ぎない。
藩政期には毎年のように洪水に見舞われた
 『徳島県史』第四巻によると、万治二年(1659)から慶応二年(1866)までの二百年間に、阿波国内で約百回の洪水(風水害)があったことが知られる。
 ●享保七年(1722)の大洪水
 この年は、六、七、八月と毎月、大洪水が襲った。『蜂須賀家記』には「御国風雨洪水」あるいは「人家流失、死者多数」という表現で記される。
 享保年間の農民の暮らしぶりについては、藩政時代、板野郡住吉村で代々組頭庄屋をつとめた山田家に、藩政時代の農村の様子を伝える貴重な史料が数多く残されており、『山田家史料』を調査した武知忠義氏が『徳島近代史研究』という本の中で、その実態を紹介している。それによれば、当時の農民の家屋はほとんどが掘立小屋で、地盤に石を敷いた家はわずかしかない。家の大きさも二×二間あるいは二×三間というものであった。また厳しい年貢の取り立てと水害によって、年貢が払えないため、田畑を召し上げられ、借家住まいや流浪人になり下がる者がでるなど、大変な窮乏に見舞われていることがわかる。
 ●享和元年(1801)の洪水
 『山田家史料』には、洪水のたびに組頭庄屋が組村の被害状況を調べ、郡代に提出した調査報告書も残っている。例えば、『享和元年八月十九日廿日風雨出水二付川成砂入土流立毛損亡約帳』によると、享和元年(1801)の八月十九日から二十日にかけて洪水があったことが知られる。「川成」とは、田畑に土砂が流入し河原のような荒廃地になった状態を指し、「砂入」とは砂が入った程度で復旧可能な状態、また「立毛」とは作物が生育しつつある状態を指す。
幕末の天変地異
 ●天保十四年(1843)の『七タ水』
 七月五、六日に襲った洪水で「七夕水」と呼ばれる。五十年来の大水といわれ、『川内村史』によれば、七日朝から翌朝までに、酒の六尺桶に二杯もたまったという。このときの洪水は、阿波に降った集史蒙雨によるもので「御国水」であった。「御国水」とは、阿波領内に降った雨によって起こる洪水を指し、これに対して、阿波国は好天気か小雨なのに、吉野川上流の土佐で大雨が降ったときに、吉野川流域に大水が急襲するものを「土佐水」とか「阿房(呆)水」といった。
 ●嘉永二年(1849)「酉の水」(「阿呆水」)
 大風雨が七月八日から十一日まで続き、『蜂須賀家記』によると「水は勝瑞村一円に溢れ、人家が漂流した」とある。旧吉野川筋の板東村(鳴門市大麻町)で百間が破堤、水位は七尺にもなった。徳島市川内町では堤防三十三か所が決壊、河口域の鶴島、宮島、富吉、富久、米津の堤防は内側からの増水で決壊したため、海水が侵入した。山川町では川田堤防が決壊し、三好郡代所の調べでは、死者二百五十名を記録している。
 ●安政元年(1854)の大地震(安政南海地震)
松茂町中喜来の春日神社境内にある敬諭碑がこのときの惨状を詳細に伝えている、突然の揺れによる家屋の倒壊と火災、津波による田畑の冠水などのほかに、碑文で特に注目されるのは、大地から水が吹き出したことが記されていることである。今でいう「液状化現象」にほかならない。村人たちは恐怖と流言飛語に戸惑う一方で、お互いに助け合って避難生活を送ったとある。先人が残した防災のメッセージである(この地震は正確には嘉永七年に起こったが、これを契機として安政と年号が変わったため一般には「安政南海地震」と呼ばれている)


松茂町中喜来の春日神社境内にある敬諭碑
 ●安政四年(1857)の「八朔水」
 「八朔」とは陰暦の八月一日のことで、このときの洪水を「八朔水」という。七月二十九日から降り始めた雨は、八月一日になって豪雨となり、旧吉野川の堤防が破堤し、板東、津慈、川崎、三俣周辺一帯が浸水した。また別宮川が増水したため、鈴江堤防が切れ、川内町で三百五十戸が倒壊した。この九年後の慶応二年(1866)に起きた「寅の水」は、前にも見た通りである。
デ・レーケの見た明治の洪水
 ●明治十七年(1884)六、八月の洪水
 明治期に入ってからも洪水は頻発し、三年九月、六年十月、九年九月とたびたび水害に見舞われた。明治十七年には六月、八月と洪水があった。このうち六月二十八日の洪水は、吉野川の調査に来ていたヨハネス・デ・レーケが遭遇している。そしてデ・レーケが徳島から離れたのちの八月二十六日には、石井町の堤防が破堤し、七十九戸が流失するという洪水があった。さらに明治十八年(1885)六月、二十年(1887)八月と続き、二十一年(1888)七月の洪水では、石井町西覚円付近の堤防が破堤した。
「覚円騒動」の発端となった洪水
 ●明治二十一年(1888)七月の洪水
 明治十八年(1885)から始まった国と県による吉野川改修工事中に起きた洪水で、水害の原因は国の工事ミスによるものだとして、住民が土木事務所を襲撃するという事件があり、工事中止の原因ともなった。
 なおこのときの洪水で、県事務所が間借りしていた民家を含む四十三戸が押し流され、土木監督署員、県土木課員などを含む三十名が亡くなった。
第一期改修工事中に起きた大洪水
 ●明治四十四年(1911)八月の洪水
 いわゆる「土佐水」といわれる大洪水。死者二十一名、負傷者七名、不明者六名、全壊百六十四戸、半壊三百八戸、床上浸水一万三干二百五十五戸、床下浸水五千四百七十八戸という記録がある。
 ●大正元年(1912)九月の洪水


中氏宅の洪水の痕跡
川島町
 九月二十五日付の『徳島日日新報』はこのときの模様を次のように伝えている。「二十一日夜来の豪雨は吉野川をはじめ那賀川・勝浦川両川に絶大の増水を見たり。県下を通じ大小河川の増水を生じ下流氾濫大洪水と化し、(中略)稲田湖海と変じ民家は湖中の孤島たるに至る」『板野郡誌』によれば、水かさは田の面上一丈(3メートル)、潮水の浸水五尺(1.5メートル)、三日三晩屋根の上で水の退くのを待っていたという話も残る。このときの洪水の痕跡が、川島町の中氏宅と石井町の田中家など各地に残されている。

田中家の高石垣を超えた洪水