河川整備基本方針・河川整備計画って何?

■治水編 〜暴れ川〜

昭和18年7月洪水では、8ヵ所の堤防が決壊し、耕地の流失、埋没約1,730ha、浸水家屋約12,500戸の甚大な被害が発生しました。最近でも、平成13年6月には戦後最大の洪水が発生し、家屋の浸水、護岸の崩壊などの被害を受けています。

重信川が暴れる理由の一つは、地形が急勾配となっているからです。水源から河口までの距離が短く、かつ千数百mの高さから一気に海まで洪水が流れます。このため、昔から「暴れ川」を治めるため、様々な挑戦を繰り返してきました。

●重信川の変遷●

約400年前の重信川の流れる川筋は現在と違い、名前も「伊予川」と呼ばれていました。 豪雨の度に氾濫していたため、松山城の城主加藤嘉明が家臣の足立重信に改修を命じました。この重信の工事によって、伊予川の暴れん坊ぶりはかなりおさまりました。 その功績を讃えて、人々は重信川と呼ぶようになったのです。

 

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重信川の流路の変遷

出典:「重信川の歴史」(玉田博一)
昭和20年代前半資料をもとに模式図化

●被災をくりかえす重信川●

明治時代、重信川上流の山林では伐採が進みました。 そのため土砂の流出が増加し、川の中に土砂がたまり川が浅くなってしまいました。大水が出るとすぐに溢れてしまいます。そこで川幅を広げる工事が行われました。
昭和18年7月、重信川では観測史上最大といわれる大洪水が発生! そこで昭和20年5月から国による改修に着手しました。 さらに、昭和20年10月には、再度の大洪水が! 下流部は各所で決壊し、田畑が流れたり、家屋が浸水するなどの被害をもたらしました。

出合
東温市
昭和18年7月洪水 
伊予鉄道の被災状況(松前町)
伊予鉄道株式会社提供

昭和18年7月洪水はん濫のつめ跡
(松山市久谷地区)
松山市提供